なぜ僕は日本とタイをつなぐプラットフォームを目指すのか 前篇 - mediator

Blog なぜ僕は日本とタイをつなぐプラットフォームを目指すのか 前篇

2017年07月30日 (日)

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メディエーターの事業を通して僕が志しているのは、タイと日本をつなぐこと。日本とタイをつなぐプラットフォームになりたい。心からそう考え、実践しています。仲介者を意味する社名(Mediator)は、タイと日本をつなぐんだという僕の思いを素直に表現したものです。

でも、僕がなぜ日本とタイをつなぐプラットフォームを目指しているのか、なぜ強くそう思うようになったのか。そこに至るまでの道のりは知られているようであまり知られていないように思います。

今日は思い切って会社を興すにいたった経緯をお話しましょう。

交差点で花売りの少女を見かけて

僕は、いまでも20才のときに見た光景が忘れられません。いつでもあのシーンを鮮明に思い出すことができます。

それは、実家の車に乗っていたときに交差点で目にした光景です。交差点には、花売りの女の子が立っていて、行き過ぎる人に声をかけていました。10才くらいの小さな女の子です。

タイでは決して珍しい光景ではありません。でも、少女が生活のために花を売っているその姿を見て、そのとき僕は初めて疑問を感じました。自分がいま目にした事実について疑問が浮かび、やがてその疑問はボディブローのようにじわじわと頭の中に広がっていきました。そしてこう考えたのです。

この子はこんなに若いのに働いている。なのに、僕は車に乗って快適に過ごしている。僕は学校に通って、車で送り迎えまでしてもらっている。どうして僕とこの子とはこんなに違いがあるんだろう。

ご存知の通り、タイは階級社会です。僕は父が銀行の役員をつとめていたこともあり、経済的に不自由することなく育ちました。それに疑問を感じたことはありませんでした。

女の子が花を売っている姿は、それまでにも何度となく目にしてきたはずです。ただ、そのときまでは見ても何も思わなかった。目に入っていなかった。花売りの少女を見ても何も感じませんでした。

でも、そのときは違いました。自分でもわからない何か大きな衝撃を受けて、こう考えました。

自分はいつも受ける側、もらう側の立場だった。でも、それだけじゃだめだ。お金をためて社会に返す立場になろう。自分の環境、自分がこれまでに周囲からしてもらったことに感謝の気持ちを忘れず、それを社会に返していくことで恩返しをするんだ。そのためにいつか起業しよう。20代のうちに会社を興し、必ず社会貢献につなげていこうと自分に誓いました。

そして、僕は20代半ばで起業することを決めました。20才のときに目にしたあの光景、あの一場面。花売りの少女を目にして自分に誓ったあの日のことを僕はいまも深く胸に刻んでいます。あの光景は、僕が起業に至った原動力であり、原点なのです。

バーツ危機の直後に私費留学で日本へ

それまではスルーしていた光景が、なぜそのときだけ僕の目にとまり、自分の将来、大げさにいえば自分の使命について考えるようになったのか。

振り返れば、僕が日本に留学した経験が大きかったように思います。花売りの少女を見かけたとき、僕は留学していた日本から一時的にタイに戻っていました。日本に留学していなければ、前の僕と同じように、少女を見かけても何も感じることなく、そのまま車で通過していたかもしれません。

僕が日本に留学したのはアジア通貨危機の直後、1998年のことです。あのとき、タイを中心に、アジア各国の通貨が急激に下落し、バーツの価値は大きく下がりました。

日本に留学するには公的な奨学金を得るか、私費で行くかの2つの方法があります。前者を代表するのが国費留学生ですが、僕は私費で留学しました。全額、自己負担です。

「自己」負担といっても、僕が負担するわけじゃない。両親が留学に必要な費用をすべて負担してくれました。

社会貢献しよう!

しかし、通貨危機でバーツが暴落していた時期ですから、両親の負担は並大抵ではなかったでしょう。アジア通貨危機の直前、1バーツは5円程度にまで上がっていましたが、それがいきなり半分以下になった。ぞっとするような暴落です。

でも、父は僕に何も言いませんでした。がんばってこいと応援してくれました。

ただでさえ私費留学で両親の負担は重いのに、バーツ危機でさらに負担が増してしまった。この事実を前にして、親の期待を裏切りたくない、両親に誇りに思ってもらえるようにがんばって勉強をしなくてはならないといつも僕は自分に言い聞かせていました。両親は僕に期待をかけて投資をしてくれたのですから、それに応えるんだと自分に活を入れていました。

そう、「お金の苦労」ということについて、初めて自分の問題として、自分の実体験としてとらえるようになった。だからこそ、交差点で花売りの女の子を見たときに、ぬくぬくと車に乗っている自分と彼女の対比にショックを受け、自分が置かれた立場に感謝し、社会貢献をしよう、いやしなければならないと心に誓ったのだと思います。

大学院に進学予定だったのに…

留学生活についてはまた別の機会にお話しますが、タイ人中流層の一般的な価値観では大学院まで勉強することが当たり前なのに、なぜ僕が大学院に進学しなかったかをお話しましょう。

僕も世間一般の人と同じく大学院を目指しました。しかし、それはかないませんでした。

タイでは大学と大学院では専攻を変えるのは一般的です。僕も留学していた埼玉大学の工学部から経済学部の大学院に変更しようと申し込みをしました。しかし、日本では専攻が異なる学生は社会人経験が最低でも3年はないと入学できません。僕はこのことを面接のときに初めて知りました。。

当然ながら大学院に合格できるわけがない。そのとき、僕はもう大学4年の後半でした。まだタイには帰りたくないけれど、就活するにはあまりにも時間がない。必死にもがいて就活に励みました。

何がなんでも仕事を見つけなければならない。無我夢中で就活していたとき、僕が通っていた埼玉大学の博士課程で学んでいるタイ人の先輩からタイ王国大使館工学部が現地採用のローカルスタッフを探していることを教えてもらいました。不幸中の幸いと言うべきでしょう。僕は学生ビザが切れるギリギリで無事に大使館に入館することができたのです。

タイに戻るか、日本に残るか

大使館勤務時代はいま思い返しても、充実した毎日でした。いまの僕からは信じてもらえないかもしれませんが、高校生まではどちらかといえば無口なタイプ。人前で話すのは苦手でしたが、大使館時代には定期的に人前で話す機会があったので、だんだん慣れてきた。いまでは得意どころか、自分の思いを熱く語れる機会をどんどん作りたいと思うようになりました。

結局、大使館に5年勤務したところで、僕はタイに戻ることを決意します。10年経って、キリがいいと思ったこと、仕事自体は面白くやっていましたが、予算で決められたことしかできないことへの不満が少し大きくなったためです。正直を言えば、上司とうまくいかなくなったという事情も多少ありますが(笑)。

実を言えば、タイに本帰国する決意を固める過程には、僕にはいくつかの選択肢がありました。まずは日本で民間企業に入るか、大使館でそのまま継続して働くかという選択肢です。タイに戻って民間企業、あるいは役所で働くという選択肢もありました。

しかし、僕は20才の時に「花売りの少女」を見て、「社会貢献」を心に決めました。この目標を達成するためには、当たり前ですが、あり余るほどのお金が必要です。限界なくお金を稼ぐためには、会社員でも役人でもダメだ。方法論として起業するしかない。そう考えて大使館を退館することを決めたのです。

2008年10月。タイに戻った僕は起業へと動き始めました。

mediator のすべて」とは?

このブログは、「日本とタイをつなぐプラットフォームになりたい」その思いのもと mediator を立ち上げた代表のガンタトーンが、過去を振り返り、現在をどう過ごし、未来をどうかたちにしていくのか…今の気持ちを素直に表現したブログです。
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執筆 三田村 蕗子

ビジネス系の雑誌や書籍、Webメディアで活動中のフリーライター。タイをもう一つの拠点として、タイはじめとするASEANの日系企業や起業家への取材も手掛ける。新しい価値を創出するヒト、店、企業の取材が得意技。コロナ禍で絶たれたタイとの接点をどう復元するか模索中。

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