コンキット・ヴォラプッタポーンさん
通訳としてコンサルタントとして日タイの架け橋になる
Table of Contents
日本人と接する機会の多い環境で育った少年が成長し、「いつかは日本へ」という幼い頃からの夢をかなえたーー。通訳として、そしてプロジェクトマネジメントを遂行できるコンサルタントとして活躍するコンキット・ヴォラプッタポーさんはいかにして自分のポジションを確立したのか?!
「大きくなったら自分も日本に行こう」
タイの大手マンションデベロッパー・アナンダ社と、日本の不動産業界の最大手・三井不動産。タイと日本を代表する2つの企業が手を組み、いまバンコクで複数の高層マンション事業を推し進めている。
この両社の媒介となり、通訳として、プロジェクトをマネジメントするコンサルタントとして重要な役割を果たしているのがコンキット・ヴォラプッタポーンさんだ。
「バンコクの高層マンションの価格はどんどん高くなっていますが、品質がそれに追いついていない。日本の管理手法をタイに導入し、日本並みのクオリティをタイでも確立するのがプロジェクトの狙いです」
そう力を込めて話すコンキットさんと日本との関わりは、幼少期から始まった。コンキットさんのお父さんは日本政府奨学金留学生の3期生として日本に留学。後に、ソーソートー(泰日経済技術振興協会)の創立メンバーとなり、会長も務めた。タイと日本との強い結びつきを語る上では欠かせない人物だ。
「小さなころから日本人と触れ合う機会が多かったので、大きくなったら自分も日本に行きたい、いつか日本に行けたらいいなと自然に思うようになりました。でも、漢字の勉強があれほど大変だとは…。漢字は中国の言葉で、日本で必要になるとは考えていなかったんです(笑)」
タイの名門高校卒業後、1990年4月に来日したコンキットさんは大学進学に備えて、まず国際教育学院日本語学校に入り、ここで1年間日本語の勉強に専念した。
ひらがな・カタカナは1週間でマスターしたものの、漢字には歯がたたない。学校の勉強についていけなくなったコンキットさんは思わぬ行動に出た。
「学校を休んで、自宅で復習に励んでいました。でも、それを知った先生にこう言われた。『学校を休んでいる間にも、授業はどんどん先に進んでいく。家で勉強しても、問題を先送りするだけ。何にもならない』と。この言葉で目が覚めました。それからですね、とにかくやるしかないんだと覚悟を決めて勉強するようになったのは。日本の大学で学ぼうと決めたのはほかでもない自分です。後戻り気する気がない以上は授業に出て、わかるようになるまで何が何でも勉強するしかないと気づきました」
「私は本当にラッキーだった」
来日から8ヶ月後の1990年12月。
コンキットさんは日本語能力試験1級の試験を受験した。ここでの成績は志望校に送られ、大学受験の合否を左右する。将来を決める重要な指針だ。
だが、結果は不合格。猛勉強で試験に臨んだものの、コンキットさんを含め、同じ日本語学校の生徒は誰も400点満点の70%以上という合格ラインをクリアすることができなかった。
ただし、不合格とはいっても、230点を獲得できたコンキットさんは大学の試験を受け、晴れて芝浦工業大学に合格。工学部材料工学科に入学を果たす。
入学後、再び語学の壁がコンキットさんの前に立ちはだかった。
「最初の1年は日本語の能力がまだ十分ではなかったので、黒板に書いてあることがほとんどわからない。とりあえず授業には出て、先生の話を聞いていましたが、授業についていけませんでした。哲学の授業なんか、さっぱりです(苦笑)。だから、1年生のときの成績は悪かったですね。授業の中身がだいたい理解できるようになったのは2年生ぐらいからです」
時間の経過とともに日本語に慣れてきたから授業の中身を理解できるようになったのではない。それを成し遂げたのは、コンキットさんのたゆまぬ努力だ。朝の9時から夕方の6時までみっちりと講義に出ては、友人からコピーさせてもらったノートをもとに復習に励む毎日。その積み重ねが、コンキットさんの学生生活を有意義なものにした。
プリペイドカードを使って週に1回はタイに電話をかけ、タイ料理が恋しくなれば自炊をして懐かしい味を再現。アーチェリー部に入部して勉強だけに終わらない学生生活を満喫した。3年生になると、コンキットさんはお父さんと同じように、日本政府の奨学金を得て卒業後は大学院に入学。さらにその上のドクターコースにも進んでいる。
「両親は、このままタイに戻ってこないんじゃないかと心配していましたが、博士課程に進むのは私の中学生の頃からの希望。日本のことが好きで、日本に留学できて、政府の奨学金までもらえた私は本当にラッキーでした」
修士課程に在学中、沖縄県・石垣島にて開催されたイベント「民族芸能・いしがき’95」が行われたときにはタイ王立舞踊団に同行して通訳の大任を果たし、1997年には、当時のタイ国科学技術省の大臣の通訳者として伊方原発に同行したこともある。通訳者としての力量を見込まれての抜擢だ。
在日タイ留学生協会の副会長をつとめていたコンキットさんは、ロータリークラブで講演を依頼されれば壇上に立ち、スピーチも披露した。充実した学生生活の様子が目に浮かぶ。
「やりがいに満ちた12年間」
しかしながら、家族の思いは複雑だったようだ。早くタイに戻ってきてほしいーー。息子の帰国を待ちわびる両親の思いをひしひしと感じながらも、後期の博士課程を修了したコンキットさんは、日本の企業を一度経験してみたいとNTTデータへの就職を決めた。同社にとって初のタイ人採用だ。
2、3年したらタイに帰国しよう、それまで日本企業で実務を身につけようとNTTデータに就職したコンキットさんだったが、在職期間は10年を超え、最終的には12年におよんだ。
「成果を求められない学生と違って、社会人はパフォーマンスを出さなければいけない。最初の1年は大変でしたが、仕事は面白かったですね。2年目には自分で考えて行動できるようになり、3年目には力がついて、仕事にますますやりがいを感じるようになりました。気がつけば12年。あっという間でした」仕事に刺激と達成感を感じる日々。悔しい思いもなかったわけではない。NTTデータの社員のうち、外国人社員の比率はたった0.5%。同じパフォーマンスであれば、評価され、昇進の機会を得るのは日本人だった。
「いつかはタイに戻るつもりだったので、割りきりました」とコンキットさんは言うが、外国人社員のフェアな待遇実現は日本企業に課せられた大きな課題だ。外国人を起用しながら評価対象から除外するというのでは、内弁慶すぎる。それが通用する時代はもう過ぎた。コンキットさんの時代から状況が改善されていることを望みたい。
「思い出深い人事システム構築の仕事」
NTTデータでの12年間。コンキットさんは多様な業務を担当した。
最初に手掛けたのは、ビルディングオートメーションの特別なプロジェクトだ。工学を学び、ITについても詳しいコンキットさんはまさに適任と思えるが、聞けば、この後、製造本部の中で、グローバル化を推し進める企画の仕事についていたこともあれば、ビジネスイノベーション本部で、全社人財育成のキャリア開発プログラムの企画を担当したこともあるという。社長が東南アジアに出張する際には何度も特命秘書として同行もしている。
コンキットさんにとって特に思い出深いのが人事の仕事だ。
「人事育成に携わってきたからこそ、現在の自分がある。本当に勉強になりました。当時の上司には心から感謝したいですね」
NTTデータの現在の社員研修メニューには、グロービス経営大学院大学の研修が導入されている。これを推し進めたのが、ほかならぬコンキットさんだ。これがきっかけで、その後、コンキットさんもグロービス経営大学院のMBAコースに進学した。
「全社人財育成プログラムの構築を進めていたときに、新聞に掲載されていたグロービスの広告記事を上司から渡され、『どう思う?行ってみないか?』と言われたんです。ちょうどMBAコースの受講を考えていたところだったので、体験的に参加してみたら、本当に役に立つ内容だった。そこで、社内簡易決済で社員なら誰でもグロービスの研修を受けられるように働きかけました」
「タイの会社での経験が足りない」
気がつけば12年の月日が過ぎ、コンキットさんは2010年にタイへの帰国を決意する。だが、どんな仕事においても高いパフォーマンスを出していたコンキットさんを会社が放っておくはずがなかった。
上層部は引き止めを図り、それが難しいとわかると、製造業の顧客をサポートするためにタイで設立した子会社のNTTデータタイランドへの転勤を勧め、コンキットさんはこれを受諾。タイ人ばかりの会社で勤め始めた。
タイでの生活に馴染むための良いリハビリになるかもしれない。そんな思いから2年間勤務したコンキットさんを次に待ち受けていたのは、「NTTデータ本社に戻ってこい」というオファーだった。
タイにとどまるのか、それともオファーを受けて日本に再び戻るのか。コンキットさんの選択肢は前者だ。オファーを断り、純正のタイの企業で働く道を採った。
「ありがたい申し出でしたが、気持ちだけ受け取りました(笑)。企業買収の仕事を任せたいという申し出に『何か違う』と思ったんですね。自分の気持ちはもうはっきりとタイにあった。しかし、将来を考えると、自分にはタイの会社での経験が足りない。YIP IN TSOI GROUPというタイの大手システムインテグレータ会社に入社し、日系企業の顧客を統括するマネジメントとなる道を選んだのはそのためです」
「いよいよフリーランス通訳の道へ」
自分は何に強く、何に弱いのか。キャリアの棚卸しをするとき、人はどうしても「弱い部分」に目をつむりがちだ。だが、コンキットさんはそうではなかった。
どんな形であれ、自分はこれからもタイと日本とを結ぶ仕事をするだろう。そのとき、「ザ・日本企業」ともいえるNTTデータでのキャリアだけでは不十分。タイにあるとはいえ、NTTデータの子会社の経験だけでも物足りない。タイの会社ならではの仕事の進め方や発想、考え方を知っておく必要がある。そう考えたのだ。
YIP IN TSOI GROUPに2年間勤務した後、いよいよコンキットさんは独立。フリーランスの通訳の道を歩き始めた。
といっても、単なる通訳ではない。工場や機械・設備から会計、法務、経営、人事やITに至るまで、幅広いジャンルでプロフェッショナルの知識と経験を持つと同時に、プロジェクトマネジメントを遂行できるコンサルタント機能も果たせる通訳だ。
「翻訳は以前から頼まれればやっていましたが、通訳で食べていくつもりは、実はなかった(笑)。ただ、知り合いから頼まれることが増えてきて、気がつけば仕事の量がどんどん増えていきました」
ロジカルな話ができない人の通訳に手こずることも少なくない。両者がヒートアップして、コンキットさんがクールダウンの役目を買って出ることもたびたびだ。しかし、どんなケースにおいても、お互いの言いたいこと、伝えたいことの橋渡し役をつとめ、確実に結果を出してきた。そのコンキットさんがいま、使命感を持って取り組んでいるのが人材育成の仕事である。
「タイの会社に入ったとき、『朝の9時にミーティングをします』と言われて行ったが、その時間には誰も来ない。日本の企業では考えられないことなのでびっくりしましたが、それはタイに良いシステムがないだけ。少しの時間で人は変わらないけれど、OJTやOFF JTを通して教育すれば一人前になる。研修を重ねれば必ず違ってくるんです」
ポジティブかつ現実的に課題解決の道を探る
タイ人は時間を守らないーー。時間厳守を絶対視する日本人がよく口にするフレーズだ。日本の会社、タイの会社を両方経験したコンキットさんは、それが多少の事実であることを認めつつも、日本人の多くがやってしまうように上から目線で「だからダメなんだ」とは切り捨てたりはしない。情緒的な精神論にも走らない。
なぜそうなのか。理由を探り、対策を考え、仕組みで状況を変えようとする。ポジティブかつ現実的だ。
「タイ人が弱いのはチームプレイ。プロジェクトがバラバラになりがちなのもそのためです。だからこそプロジェクトマネジメントを徹底する必要があるんですよ。さらにいえば、タイ人の管理職はオールラウンドの日本人とは違って、自分の業務だけに特化しています。悪く言えば視野が狭い。でも、これはトレーニングと権限委譲で解決できると思っています。権限を与えて仕事をさせれば、必ずできるようになるはずです」
仕事を任せることで人は伸びると確信できるのは、自らの体験ゆえだ。
タイ人でも日本人でも基本は同じ。能力には違いはなく、仕組みを変えシステムを構築すれば、課題は解決できる。自らの豊富な経験をもとに語るコンキットさんの話には強い説得力がある。
日本で学んだこと、自分が蓄えてきたことを若いタイ人たちに教えたい、知ってもらいたい。膨らんできたコンキットさんの思いに応えるかのように、最近は大学からの仕事のオファーが着実に増えてきているそうだ。すでに論文の審査の仕事も手掛けている。いずれは大学で教鞭をとる日も近いのではないか。
コンキットさんはソーソートーを設立した父親とは異なる領域、異なる役割で、日タイの架け橋として活躍している。それと同じように、今度は彼が育てた人材の中から、タイと日本を結ぶ後継者が生まれていく。そんな未来が想像できる。