タイの産業発展に寄与した「国士」ープラユーン・シオワッタナ氏「私と日本」vol.25 - mediator

Blog タイの産業発展に寄与した「国士」ープラユーン・シオワッタナ氏「私と日本」vol.25

2021年10月07日 (木)

私と日本
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アジア文化会館での出会いが人生を変えた

計量測定は品質管理の重要な軸であり、工業の発展に欠かせない技術だ。基盤となるこの技術のエキスパートであり、タイ国家計量標準機関(NIMT)の設立に携わって所長をつとめ、さらには泰日経済技術振興協会(TPA)の会長もつとめてタイの産業発展に尽力した人。それがプラユーン・シオワッタナ氏だ。

プラユーン氏が文部省(当時)の奨学金を得て日本に留学したのは1967年。日本語を学んだ後、電気通信大学を卒業し、大阪大学で修士号を獲得。日本で7年の月日を過ごした。

「この7年間は私の人生を変えたといっても大げさではありません。とりわけ大きかったのはアジア文化会館(ABK)での出会いです。あれは電通大の4年生だった1969年、タイで日本製品の不買運動が起きたとき、私たちはなぜそうした運動が起きたのかを解説したビラを東京の駒場留学生会館でまきました。すると数日経って、ABKの工藤正司常務理事から電話がかかってきて話がしたいと言われて、カフェでお会いしたんですよ。私たちの話に真摯に耳を傾けてくれたのを覚えています。それからというもの、私はABKに頻繁に出入りするようになりました」

1957年に設立されたABKはアジア学生文化協会が運営する学生宿舎だ。目的は、アジア各国の青年学生と日本の青年学生が相互の理解を深め、友愛の交流を培うこと。その本質に触れた経験はプラユーン氏に深く刻まれ、その後の考え方や意思決定に大きな影響をもたらした。

「ABKというのは留学生が単に寝起きする場所ではなく、人と人とが交流する接点。私の相談に乗ってくれる方も多く、ABKに行くと私は自宅に戻ったような気になりました。そのとき知り合った方たちとはいまでもつきあいが続いています」

ABKの創設者である社会教育学者、穂積五一氏との出会いも忘れられないとプラユーン氏は述懐する。「たまたまABKのロビーでお会いしただけですが、日タイ経済協力協会やタイに穂積先生が設立されたタイ日経済技術振興協会(TPA)についてお話されました。設立にかかわる政治経済的背景や目的を、単なる学生似すぎない私に時間をかけて丁寧に説明していただいたんですよ。経済協力の大原則は『お金は出すが、口は出さない』ことであり、タイ側の自主性を尊重することだとも話されていました」

穂積氏は会話の最後にプラユーン氏にこう告げたそうだ。「タイに戻ったらぜひタイ日経済技術協会の場を利用してタイ社会に大いに貢献してほしい」プラユーン氏はまさにこの言葉どおりタイの社会に貢献する道をひたすら歩んでいく。

人はみな仲間であり、平等だ

タイに戻ると、プラユーン氏はチュラロンコン大学の講師として仕事をしながら、TPAの仕事も手伝う「二足のわらじ」生活を送った。

TPAはタイの経済発展のために1973年に設立された団体だ。日本からタイへの最新技術と知識の移転、普及、人材育成を行うことを目的としているが、穂積氏が語ったように、日本側は資金面で協力するものの、実務については100%タイ人が決定している。活動内容は、技術専門書やビジネス書・語学書など出版・販売、技術や管理セミナー研修の開催、コンサルティング、計測機器や実験器具、実験器具の校正・検査サービスなど幅広い。

「決定権があるのは日本への留学経験があるタイ人とその関係者。窓口が一本化されているのも特徴です。ありがたいことに、回りの雑音が入ってこないような環境を穂積先生たちが作ってくださったんですね。TPAを通して、私は人はみな仲間であり、平等であることを心から理解できたと思います」

大学の教授、政府機関の関係者、多くの技術者、そして他国の留学生。さまざまな人々がタイの社会におけるTPAの活動の重要性を理解し、支援の手を惜しげなく差し伸べた。そうした活動の核となって奔走したのが、1980年からTPAに移ったプラユーン氏だ。

あるとき、プラユーン氏は日本の経済産業省の担当者にこう言われたという。「TPAは国のために仕事をする愛国心の強い『国士』の集まりですね」「そのときは『国士』の意味がわからなかったので、後で辞書を引いて意味を知りました。ああ、褒められたんだと思うととてもうれしかったのをよく覚えています(笑)」

NMIJによる技術移転はもっとも成功した技術協力

その後、TPAの会長に就任したプラユーン氏は泰日工業大学の設立に注力した。TPAから1億バーツを借りて、2006年に泰日工業大学(TNI)は開校の日を迎える。「ものづくり」をベースとし、現場を重視した教育を実践しているTNIの学生数は順調に増え、2年で黒字化を達成している。卒業生の就職率は100%。タイの産業を担う人材育成に寄与していることは言うまでもないだろう。

プラユーン氏は1998年に創立されたタイ国家計量標準機関(NIMT)でも中心的な役割を果たした。「科学技術省の知り合いからNIMTに興味がないかと聞かれたので応募しました。TPAで測定器の校正をずっと手掛けてきましたが、国内にはまだ高い精度の測定機材はなかったんですよ。しかし、品質管理を徹底し、良い製品を作るにはそうした機材は不可欠です。当時、実験室が置かれていた建物は高速道路に面していたため、車の振動がひどく、高度な測定などは到底行えない環境でした。機材だけではなく建物も新たに必要でした」

とはいえ、1998年当時はアジア経済危機の真っ只中だ。タイ政府には予算がない。そこで、プラユーン氏は日本政府からの国際協力銀行(JBIC)を通じた円借款の交渉をスタートした。

「予算額は10億バーツ。この費用は品質管理を保証するためには必須であることを訴えて、日本側からOKの返事をいただきましたが、計量標準総合センター(NMIJ)の秋元義明さんから人材面が不足しているのではないかと指摘を受けました。確かに当時のタイには、計量に関する技術を備えた人材があまりにも少なかった。人材の技術力がなければ庁舎と測定機材だけでは不十分です。すると、国際協力機構(JICA)の技術支援計画を通して、NMIJの計量の技術者や研究者がNIMT職員を基礎から訓練してくれたんですよ」

NMIJが受け入れたNIMTの職員は36名。3ヶ月ほどの研修を実施したほか、NMIJからも66名もの日本人の技術者が1ヶ月程度派遣され、タイで実地指導を行った。

「本当に手取り足取り丁寧に指導をしていただきました。NMIJによる技術移転協力がなければ、その後のタイの産業発展もなかったでしょう。この協力は過去最大規模のものであり、最も成功した技術協力の一つだと確信しています」

その後、国立科学技術開発庁(NSTDA)の副長官に就任し、定年退職後、現在はタイ国家イノベーション庁 (NIA) の顧問をつとめるプラユーン氏は日本についていまこう見ている。

「少し内向きになっているように思います。ちょっともったいないですね(笑)。もっともっと世の中に積極的に出ていってほしい。タイの学生たちにも自分の領域を打ち破って人に誇れるようなものをどんどん創り出してほしいと思います」

そう語るプラユーン氏がたどってきた道のりを一言でまとめると、やはりこの言葉しかないだろう。国家のために身命をなげうって尽くす人物であり、ひときわ優れた人材を意味する「国士」である。

プラユーン氏を始めとする「国士」たちがタイと日本の緊密な関係を構築し、タイの産業発展を導いてきた。その関係をさらに強固なものにし、新たな成長を実現していくのは次世代の「国士」たち。タイと日本の両方で、プラユーン氏のような志と情熱を備えたチャレンジングな人材が出現することを期待したい。

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執筆 三田村 蕗子

ビジネス系の雑誌や書籍、Webメディアで活動中のフリーライター。タイをもう一つの拠点として、タイはじめとするASEANの日系企業や起業家への取材も手掛ける。新しい価値を創出するヒト、店、企業の取材が得意技。コロナ禍で絶たれたタイとの接点をどう復元するか模索中。

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