尽きることのない日本語への関心に忠実に生きるー日本語講師のアサダーユット先生「私と日本」vol.21 - mediator

Blog 尽きることのない日本語への関心に忠実に生きるー日本語講師のアサダーユット先生「私と日本」vol.21

2021年06月25日 (金)

私と日本
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ゲームを極めるために日本語を勉強した日々

日本のマンガやアニメがきっかけとなって日本語を学び始め、仕事として日本語を使うようになった。そんなタイ人は少なくない。 だが、日本語への関心が募り、日本語の歴史や文法にまで研究対象を広げ、日本語を極めているタイ人となるとがぜん数が減るはずだ。アサダーユット・チューシー先生はまさにその少数派の日本語の先生である。

「子どものときに、ドラえもんなど、タイ語に翻訳された日本の漫画の虜になりました。でも、漫画は子どもの文化と思われているので、中学生になると親には『もう漫画を読むのはやめなさい』と言われてしまいました」

そう言われてもアサダーユット先生の漫画熱が冷めるはずがない。その後も日本の漫画を読み続け、ジャンルもどんどん広がっていく。

「少年ジャンプの聖闘士星矢が好きでした。でも、うちの家はとても厳しくて、あまり外に遊びに行けなかったし、友達と長電話をしていても怒られる。それでもなんとか友達に電話をして『聖闘士星矢を読んだよ。面白かった』という話を聞くと、矢も盾もたまらず、実物を読みたくなりました」

アサダーユット先生が出かけた先は日本の漫画がずらりと並ぶ貸本屋だ。そこでアサダーユット先生は、思う存分、日本の漫画を読み漁る。高校に入ると、興味の対象がファミコンゲームに移っていった。

「少年ジャンプ関連のヒーローが活躍するRPGゲームにはまっていました。ただ、そこは日本語ばかりの世界。よし、日本語教材を探してひらがなから勉強をしようと思いました」

おにぎり、電話、キャラクターの固有名詞。アサダーユット先生は早くも日本語を読めるようになっていた。高校では、就職に有利だと考え理系のコースを選んだものの、物理が苦手で、このままではうまくいきそうもない。アサダーユット先生はゲームを極めるために日本語をさらに勉強しようと、チュラロンコン大学の日本語コースに進学した。

自分は教師に向いている

チュラロンコン大学では、ゼロから日本語を学ぶという学生が大半だ。だが、アサダーユット先生は違う。すでに日本語の基礎を習得し、同級生に比べて有利だった。

「他の人よりもできる!と思いました(笑)。当時は、東京堂書店や紀伊国屋に出かけては、翻訳していない純正の日本語の本や漫画を見ていましたね。値段が高いのでなかなか買えなかったし、すべてがわかるわけではなかったのですが、いつか読めるようになりたいと買っておいた本が何冊もあります」

大学2年のときに、日本人と日本語で接するチャンスが訪れた。大東文化大学がタイ語を学ぶためにチュラロンコン大学でサマーコースを実施していたのだ。チューターとしてプログラムに参加したアサダーユット先生は、前にもまして日本語熱が高まっていく。

「日本人の友人ができたのが大きかったですね。彼らは私が初めて接した海外の人。たった3週間しか一緒にいなかったのですが、別れの日には泣いてしまいました。また日本語で話したいと真剣に思いました。日本語で手紙もずいぶん書いたんですよ」

せっかくできた友達とまた日本語で語り合いたい。自分の気持や意見を日本語で問題なく伝えたい。モチベーションが上がって勉強に励んだアサダーユット先生はやがて自分の長所をはっきりと自覚した。

「自分が教師に向いていることがわかってきました。思い起こせば、中学のころから語学の先生になりたいと思っていたんですよね」

もともとあった語学への興味や関心。教師への適性。それらが日本語を学ぶ過程で大きく花開いていったのだ。

教育の観点からディスコースを学ぼう

ときは1997年。大学4年のまさにこの年、タイを未曾有の経済危機が襲う。就職先も限られていたため、アサダーユット先生は日系企業に就職するため、卒業前に日本語をさらに磨こうと1年間、日本に留学。帰国すると、教授から「大学の先生にならないか」と誘われたが、アサダーユット先生はビジネス経験を積んでから教師になるべきだと考えこの申し出を断り、日本の製造業に就職した。

「教授からのお誘いは光栄でしたが、なによりもビジネスの現場を知りたかった。先生になるのは社会勉強してからでもいいと考えて、通訳として就職しました」

日本の会社に勤務した3年間。アサダーユット先生は多くを現場で学んだという。良い日本人ばかりではない。悪い日本人もいる。的確な支持を出す良いボスもいれば、反面教師にしかならない悪いボスもいる。仕事のミスを通訳のせいにされることもあった。

「通訳のミスにするのが一番無難な解決法なんでしょうね(笑)。その会社では、日本人といっても本当にいろいろな人がいることを知りました。もともと会社に勤めるのは3年間と決めていたので、その後は教師になろうと思いましたが、やはりもっと日本語を勉強したい。とはいえお金がなかったので、日本学生支援機構が実施しているEJU(日本留学試験)と、日本の国立大学の試験を受けました。ところが、面接試験に落ちてしまったんですね。タイの大学院に入ろうかと思っていたところに、チュラ大が修士課程を開くことがわかったので修士課程に進み、文法(モダリティ)を研究しました」

修士課程の途中で、日本の文科省からの奨学金を受け、交換留学生として早稲田大学に留学したアサダーユット先生はここで日本語教育学を専攻した。教育の観点からディスコース(言語で表現された内容の総体を意味する概念)を学ぼうと考えたのだ。

中でもアサダーユット先生がフォーカスしたのは対話の文法だ。たとえば、何か問題が起きた時に、先に結果を述べ、それから理由を伝えると、日本では言い訳とみなされる。理由を先に述べ、それから結果を伝えた方が相手に与える印象はぐっといい。

「それは社会的な背景があるからです。背景が文法に干渉しているんですよ。『ね』という終助詞も面白い使い方をされていると思います。これは、もともとは東京方言。江戸から明治になったとき、都が東京に移されたので、それまでの『な』よりも東京方言の『ね』が使われるようになったんです。ディスコースとしては、褒める意図で使われる『ね』もあれば、皮肉を込めて『〜ね』ということもある。省エネというか、簡単に会話を済ませるために『〜ね』を使うこともあります」

次から次へと披露される日本語の知識。多くの日本人が何気なく使っている言葉の意味や源泉、背景をアサダーユット先生は軽やかに読み解いていく。その手腕は『鮮やか』の一言だ。

「ね」の研究にとどまらず、スピーチや文章の中のマーカーになりそうな言語要素に着目し、研究を深堀りしたアサダーユット先生は2005年にスタートした博士論文を9年の月日をかけて2014年に完成させた。

タイに戻ったのは2008年。日本政府から受けていた奨学金は返金不要だったが、アサダーユット先生は国に戻り、タイと日本の架け橋になることが奨学金の目的であり、自分の役割だと考えた。

よし、いよいよ日本語教育に携わろう。チュラロンコン大学で日本語講師の職を得たアサダーユット先生は、自分が日本語を勉強しているときに教材が不足している現状に満足していなかったことを思い出す。

「もっと面白い教材があるはずだと考えていると、そうだ、日本のテレビ番組だと思いました。お笑い番組は、なぜそこで日本人が笑っているのかを知ることができるし、日本人の声優が吹き替えしたハリウッド映画も教材としては最適です。幸い、私は留学期間中にこうした番組をたくさん録画していた(笑)。教材にはことかきません」

すべてが現在につながっている

他の人よりも日本のことをもっと知らないといけない。教えている以上、深く日本語を知る責任や義務が自分にはある。そう考えるアサダーユット先生は、COVID-19の影響でここ2年間は日本を訪れていないが、それまでは毎年のように日本に行き、全国各地を回っていた。

訪問先はマイナーな都市や町も多い。函館から釧路、網走、阿寒湖。寒さの中での日本人の暮らしぶりを自分の目で見て、和歌山ではお燈まつり(世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の一部である神倉神社で毎年2月に行われる勇壮な火祭り)に参加した。佐渡ヶ島で能舞台を稽古したこともあるアサダーユット先生の今後の目標は、まだ訪れたことがない都道府県を回ることだ。

「津軽独自の音楽に興味があるので、津軽にはぜひ行きたい。愛媛や山口にも行って、海岸線での人々がどう暮らしているのかを知りたいですね。生徒たちにも表面的な日本語だけではなく、言語と社会や生活との結びつきに興味をもってもらいたいと思います。そのためには遊ぶことも大事ですよ」

その言葉どおり、アサダーユット先生は自らの好奇心に忠実に旅し、遊び、学ぶ対象を広げている。理系コースだった高校時代の経験を活かし、日本語で理科を学ぶことにも関心があるそうだ。

「大学では江戸時代の日本文学や日本語表現に興味がありました。それが現在の研究内容にも結びついている。そういう意味では、過去にやってきたことすべてがいまにつながっていますね(笑)」

ユニークな教材、多分野におよぶ豊富な知識、衰えることのない好奇心。軽やかに楽しげに興味の対象を広げ、深めていくアサダーユット先生から教えを請う生徒たちは幸運だ。

私と日本」とは?

日本語を話し、日本の価値観を身につけたタイ人から見た、日本の姿とは何か?2つの言葉で2つの国を駆け抜けるタイ人の人生に迫る、タイでのビジネスにヒントをくれるドキュメンタリーコンテンツ。
三田村 蕗子の画像
執筆 三田村 蕗子

ビジネス系の雑誌や書籍、Webメディアで活動中のフリーライター。タイをもう一つの拠点として、タイはじめとするASEANの日系企業や起業家への取材も手掛ける。新しい価値を創出するヒト、店、企業の取材が得意技。コロナ禍で絶たれたタイとの接点をどう復元するか模索中。

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