縁を紡いでつないで職を得たティパワンさん「私と日本」vol.26 - mediator

Blog 縁を紡いでつないで職を得たティパワンさん「私と日本」vol.26

2021年11月10日 (水)

私と日本
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タイ語を話す外国人を初めて見た

タイ最大規模の財閥であるチャロン・ポカパン(CP)グループ。このCPグループ傘下のCP ALL社が母体となって設立したパンヤーピワット経営大学(PIM)で、2012年から文学部学部長をつとめるのがティパワンさんだ。多彩なビジネスシーンで即戦力として活躍できる日本語人材を育てる現職は、ティパワンさんのこれまでのキャリアの集大成といっていい。

長く、かつ深いティパワンさんと日本との接点はいまから42年前に始まった。当時、タマサート大学の1年生だったティパワンさんは、ある日、キャンパス内で二人の日本人にこう話しかけられたそうだ。「ห้องน้ำอยู่ที่ไหนคะ」トイレはどこですか、とタイ語で尋ねられたティパワンさんは驚いた。

「タイ語を話す外国人を見たことがなかったので、本当にびっくりしました。と同時に、彼女たちの出身国である日本への興味が湧きました」

広告/PRを学んでいたティパワンさんはすぐに日本語の勉強をスタート。4年になると、法政大学の奨学金を得て文化交流性として1ヶ月、日本に滞在した。だが、日本への思いはやまず、大学を卒業すると今度は文科省の奨学金で慶應義塾大学に留学を果たす。

「最初は広告/PRを専攻していましたが、途中で情報技術に専攻を変えたので結局、修士号を得るのに4年かかってしまいましたが、この4年間は私の財産。たくさんの思い出と友人ができました」

留学生活を支えてくれた人物

忘れられない思い出。数ある中からティパワンさんは2人の人物との出会いを挙げてくれた。

「一人は、日本に到着した3日後に参加した文科省主催のレセプションパーティでお会いした坂本さんです。ご夫婦で参加されていて、奥様は着物をお召しでした。パーティが終わってホテルを出ようとしていたら私に忘れ物を渡してくれたのがきっかけで、その後もずっと連絡を取り合うようになったんですよ」

以前、インドネシアに駐在していたという坂本夫妻に誘われて、ティパワンさんは当時の中曽根首相主催のお花見の会も呼ばれ、冬になると「寒いだろうから」とコートも送ってくれたそうだ。

「留学期間を通してずっと私を支えてくれました。ご夫妻は結婚53周年を祝うために総勢家族19人でバンコクのオリエンタルホテルに来られたこともあるんですよ。そのときは念願かなって、お二人にバンコクを案内できました。二人共すでに亡くなってしまいましたが、本当にありがたいご縁でした」

もうひとり、ティパワンを力強くサポートしてくれたのがホストファミリーの堤さんだ。

「慶應義塾大学に紹介してもらったホストファミリーですが、日本の分野や習慣について本当に丁寧にアドバイスしていただきました。お正月の餅つき大会にも参加させてもらったし、堤さんの山中湖の別荘にも招待してもらったこともあります。お子さんの英語の勉強を見ていたこともあって、ファミリーで仲良くしてもらいましたね。私が結婚したときには贈り物もいただきました。コロナで行けなくなりましたが、それまでは日本に出張するたびに堤さんとはお会いしていたんですよ」

出会いを出会いだけで終わらせず、ずっと縁が続いているのも、ティパワンさんが真面目に誠実に真摯に日本や日本語と向き合って努力を重ねていたからだろう。出会いを呼び寄せたのはティパワンさん自身だ。

資生堂からソーソートーへ

留学期間を終えてタイに帰国したティパワンさんは、ラムカムヘン大学のマスコミ学科の教師として広告やPRを教え、夜はソーソートー(泰日経済技術振興協会)で日本語やタイ語の教師として働き始めた。

「ソーソートーでは日本人にタイ語を教え、タイ人には日本語を教えていましたが、あるときにタイに進出していた資生堂の社長の浅沼賢さんから仕事を手伝ってくれと頼まれました。聞けば、タイでの広告やPRに問題を抱えているというお話。それなら私の専門分野ですし、力になれればとアドバイザーとして働くことにしました」

やがて資生堂の仕事が増え、結局、ティパワンさんは乞われる形での正式のスタッフとなり、10年間、タイの資生堂で働いた。広告PRに詳しく、日本語を流暢にこなし、人当たりもいいティパワンさんは資生堂にとって願ったり叶ったりの人材だったに違いない。

その後も、ティパワンさんは各方面から引っ張りだこだ。タイが経済危機に陥った1999年には赤十字の仕事をしている友人から誘われて資金調達のPRの仕事をつとめ、起業した夫の会社でも働きファミリービジネスを支え、ソーソートーからも「手伝ってほしい」という依頼を受けて勤務している。

「結局、ソーソートーには7年間いました。ただ最後の1年は病気になってしまったんですね。入院・手術をしたこともあり、もう仕事はお休みしようと思って退職しました」

だが、働き詰めの日々に別れを告げて、休暇に入ろうとしていたティパワンさんを周囲は放っておかなかった。

会社勤めの景観があるから今がある

「新しい大学を作ったから、そこで仕事をしてみないか」

ソーソートーを退職したティパワンさんに、CP ALLに勤める友人はこう申し出た。

「話を聞いてびっくりしました。というのは、大学の場所は私の家のすぐ目の前。本当にすぐ近くで、大学からよく見える(笑)。当時、CEOの考えで学部は1つだけという方針でしたが、セブンイレブンの売り場に日本の製品がたくさん並んでいる光景を見て、『よし、PIMの中に日本語学科を作ろう』と思いました」

職場が物理的に近く、ティパワンの見識、知見、スキル、ノウハウを総動員できる。この職務を引き受けられるのは確かにティパワンさん以外にはいなかったのではないか。

ティパワンさんもこう振り返る。

「タイ資生堂の浅沼社長に声をかけられたとき、私はまだ教師の仕事を続けたかったんですよ。父が民間のビジネスをあまり好きではなく、私に大学や政府の仕事を続けてほしいと希望していたこともあって、引き受けようかどうか躊躇していました。でも、そんな私に浅沼社長はこう言ったんですね。『ティパワンさん、広告宣伝を教えるにしても会社の勤務経験がない人が生徒にちゃんと教えられるかな』『会社に勤める経験を積んでからでもいいんじゃないの』。そのとおりでしたね(笑)。会社勤めの経験があるから、いまがあるのだと思います」

PIMの学部長に就任してから9年。日本人観光客の数は減り、日本語を学ぼうとするタイ人も日本語教師の数も減った。日本政府は奨学金を出して日本への留学生を募ってはいるが、日本企業の給与水準があまり高くないため、日本企業に勤めたいというタイ人の数も減少中だ。タイにおける日本語人材へのニーズは明らかに減っている。

「日本語人材を育成する立場としては、正直、状況は厳しいです。中国系の企業の方が給与が高いのは確か。でも、日本には人を育てようというきちんとしたシステムがある。ビジネスマナーも丁寧です。私はいまも昔も日本が大好き。以前のようにたくさんの日本人観光客がタイに遊びに来られるように、日本政府にはぜひ経済を盛り上げてほしいですね」

そう話すティパワンさんの言葉の端々から日本への深い愛情がうかがえる。日本人留学生とのちょっとした出会いから縁を大切に紡ぎつないで天職を得たティパワンさん。この先もさらにさらにティパワンさんの活躍を目にしたい。

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執筆 三田村 蕗子

ビジネス系の雑誌や書籍、Webメディアで活動中のフリーライター。タイをもう一つの拠点として、タイはじめとするASEANの日系企業や起業家への取材も手掛ける。新しい価値を創出するヒト、店、企業の取材が得意技。コロナ禍で絶たれたタイとの接点をどう復元するか模索中。

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