自立できる強い通訳を目指そう。空軍のパイロット志望から日本語通訳へ。( アンナートさん)「私と日本」vol.1 - mediator

Blog 自立できる強い通訳を目指そう。空軍のパイロット志望から日本語通訳へ。( アンナートさん)「私と日本」vol.1

2015年08月06日 (木)

私と日本
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「日本語通訳になったのは運命だった」

こう振り返るアンナート・ネットノッパラットさんは、フリーランスの日本語通訳の第一人者。いまでも毎朝、NHKのニュースを聞きながらシャドーイングに精を出し、日本語のスキルアップに励むアンナートさんは、なぜ日本語を学び、日本との接点を深めていったのか。その軌跡に迫ってみた。

成績上位7番目の生徒に与えられた日本留学への切符

タイに進出している日系企業の数は2014年で約4000社。そのうち半数以上を占めているのが製造業だ。アンナートさんはこの製造業の通訳を得意とするエキスパート。30年以上にもおよぶ日本や日本語との関わりは、空軍士官学校時代に始まった。

「一年生の成績は上から7番目でした。上位8名は留学できることになっていましたが、英語圏への留学の枠は埋まってしまったんですね。7番目と8番目に残されたのは日本の枠だけでした」

同じように日本への留学の切符を手にした8番目の学生はその権利をキャンセルし、現在はタイ航空のパイロットになっているそうだが、アンナートさんは日本への留学を決めた。「子どものときに見たアニメのドラえもんを生んだ国」。それぐらいの知識しかなかったが、せっかくのチャンスは活かそう。そう決意したからだ。

日本のコミュニティに溶け込んだ大学生活

翌年から、士官学校に通いつつ、留学に備えて泰日経済技術振興協会で日本語を学ぶシビアな二重生活がスタート。ゼロから日本語を学習し、1年が経過した後、いよいよ留学先の日本へと飛び立った。

それは何年のことですか? そう尋ねると、アンナートさんはよどみなく元号で答える。

「昭和58年(1983年)にまず東京工学院日本語学校で日本語の勉強をして、昭和59年(1984年)から防衛大学校で4年間、電気工学を学びました。ほら、私はもともと空軍士官の学校にいたでしょう。だから、留学先も防衛大学校なんですよ。大学にはタイ人コミュニティもありましたが、私はそこには加わりませんでした。だって、そんなことしたら、日本に来ている意味がないですから」

寮に入り、日本人のコミュニティに溶け込もうと努力し、1年生ではバレーボール部、2年生ではグライダー部に入部。サークル活動に励み、合コンにも参加し、もちろん日本語学習にも力を注いだ。

まだ、日ータイの辞書などない時代。日本語の意味を知ろうにも、英語の辞書を間にはさまなければならない。一つの文章を訳すのに途方もない時間を要した。

「当時はネットもない、携帯もない、docomoもない(笑)。大変でしたよ。漢字を覚えるのも苦労しました。毎日5個は覚えようと500回書いて勉強していましたが、次の日の朝、起きると、覚えているのは5つのうち2つだけ(笑)。何度も何度も繰り返して頭に叩き込みました」

空軍を辞めたい

防衛大学校での4年間、必死で日本語を学習したアンナートさんは卒業後、奈良県にある航空自衛隊幹部候補生学校で6ヶ月間訓練を受け、その後、東海大学大学院の光工学部に席を置き、情報技術センターで人工衛星から撮影した画像の解析について研究した。いずれ自分は空軍に戻る。そのときに活用できる技術を身につけたいという動機からだ。

しかし、平成4年(1991年)にタイに戻り、空軍に勤め始めて1年ほど経つと、アンナートさんは自分の将来を考えなおすようになった。

「タイの軍隊は、基本的にアメリカ志向。英語ができる人が何かにつけて優遇されます。上下関係が厳しく、絶対的な命令に何が何でも従わなければならないところもあまり論理的ではないと感じました」

日本の防衛学校や自衛隊幹部候補生学校も同じではないのか。いや、タイよりも厳しいのではないのかと尋ねると、アンナートさんは言下に否定する。

「日本ももちろん厳しいですよ。でも、部下に何か問題があった場合には、上の人もいっしょに罰を受けたり、ともに訓練に励んでくれる。タイではそれはないんです」

絶対的な服従が強いられる環境には馴染めない。適性のなさを実感したアンナートさんだったが、日本には空軍からの奨学金を得て留学していた身だ。もし空軍を辞めるなら留学にかかった費用(200万バーツ)の3倍を返済しなければならない。それができない場合には、14年間空軍で働く必要があった。

「私はお金持ちの家の出身じゃないから、そんなお金は払えない。そこで、空軍で働きながら、日本語通訳の経験を積んでお金を稼ごうとアルバイトを始めました。仕事が終わってから、日系の電子レンジの工場で13年間通訳をしたんですよ。日曜日もそこの社長に誘われてゴルフに出かけていたから休みはなかったですね」

13年間のアルバイト経験がフリーランスの通訳の土台を作った

空軍での仕事と通訳のバイト。ハードな日々だったに違いない。だが、アンナートさんは空軍をやめる目標の日まで「あと○日」とカウントダウンしながら、13年間を過ごし、晴れて2004年に退役。念願のフリーランスの通訳の道へと踏み出した。

休みがろくにない13年間で、アンナートさんが手にしたものは大きかった。部材の受け入れ、溶接、スタンプ加工、塗装、表面処理、機械加工、組み立てライン、検品、品質検査から、購買や人事、総務といった管理部門に至るまで。およそ通訳に不可欠な知識、情報、専門用語を習得したのはこの期間だ。

「売り掛けとか買い掛けとか、経理の専門用語も学びましたよ。アルバイトのおかげで、通訳として一人前になれると思った。あ、もうひとつ収穫があります。ゴルフも好きになりましたね。いや、好き以上。いまやゴルフ狂いです(笑)」

空軍での勤務と、日系の電子レンジの工場での通訳のバイト。2つの仕事を13年間、両立させた後、アンナートさんはフリーランスの日本語通訳になった。ときは2004年。日本語を学び始めてから22年の月日が経っていた。そしていま、日本語通訳の実力者として活躍するアンナートさんが情熱を傾けていることとは…?!

日系企業の活発な進出を背景に仕事が殺到

念願かなってフリーランスの日本語通訳として独立したアンナートさんのもとには仕事の依頼が殺到した。

「毎日仕事をしていました。1日に2、3社から依頼されることも珍しくない。日本の会社もいまのようにコストダウンに走っていなかったからギャラも良かった(笑)。良い時代でした」

2000年代初めといえば、日本の製造業の進出が活発化した時代だ。製造工程を把握し、技術的な知識と専門用語を身につけ、日本人の機微や日本語の繊細な表現にも精通したアンナートさんが引く手あまたなのは当然だろう。

「でもね、私にも苦手な分野があるんですよ。ダメなのは化粧品関係、あとはケミカル。それから株。金融関係は苦手(笑)。基本は、生産工場のある会社の通訳ですね。いまは食品関係の展示会や商談の通訳をすることが多いかな。車のトレーニングセンターなど、人材育成の場の仕事は好きですね」

個人の社会貢献、PSRを実践

人を育てるーー。これは現在のアンナートさんのキーワードだ。日系の製造業のタイ進出を黒子としてサポートし、たくさんのノウハウを積み重ねてきたアンナートさんは、いまそれを後輩たちに伝えていこうとさまざまな活動を繰り広げている。空軍からの奨学金を得て日本に留学したからこそ、いまの自分がある。だから今度は自分がその恩を返していく番だ。それが国のためになる。この意識と自覚がアンナートさんを人材育成に駆り立てる。

5年前には、facebook上に日本語通訳を志すタイ人のためのコミュニティを開設。ボランティアのアドミニストレーターとして自分の知識や経験をフル稼働させ、寄せられる質問に熱心に答えている。

「企業の社会貢献(corporate social responsibility)を意味するCSRという言葉があるでしょう。私がやっているのはその個人版。PSR(personal social responsibility)なんですよ」

この6月には、泰日工業大学(TNI)でセミナーを開催した。参加者は、TNIの大学生約20人、通訳の仕事をしている人、および 通訳に興味のある人80人の計100人だ。アンナートさんは準備に2ヶ月をかけて本番に臨み、熱弁をふるった。セミナーはまず、工場の通訳希望者なら覚えておいて損はないラジオ体操からスタートしたそうだ。

「工場通訳なら、ラジオ体操は覚えておかないとね」

自立できる強い通訳には何が必要か

アンナートさんにセミナーの写真を見せてもらった。そのうちの1枚に、壇上でエイリアンのようなピンク色の人形といっしょに写っている写真がある。聞けば、セミナーの中で、学生たちとゲームをやるために買った人形だという。だが、準備をしている際にふと閃いて、用途を変更。「強い通訳」の例えとして人形を用いた。

「この人形は、空気を入れただけでは簡単に倒れてしまうけれど、足元に水を入れると、もうダルマのように倒れなくなる。通訳も同じです。日本語をただできるだけでは強い通訳にはなれません。語学だけじゃダメ。専門用語を知り、人間関係を学び、相手の表情を読み取るといったスキルを身につけてはじめて、ダルマのような強い通訳になれるんです」

セミナーで、アンナートさんはダイキン工業のエアコンのキャラクター「ぴちょんくん」を題材にセミナーの参加者に問題を出した。

「ぴちょん」君にタイ語のあだ名を付けるなら、どんな言葉が適切か?」

日本人には言うまでもないが、「ぴちょん」とは水滴が落ちる音から由来している。だから単純に「水滴」をタイ語に訳したのではふじゅうぶん。水滴が落ちる擬音語を考えなければならない。

「日本人に『ぴちょん』と聞こえる水滴の音は、タイ人には『จุ๋ม: ジュム』と聞こえる。だから、正解に一番近いのはタイ語で『จุ๋ม: ジュム』という言葉。残念ながらその答えは出なかったので、『水滴』と答えた学生に賞品として人形を贈ったんですが、その子がfacebookの通訳者のページにうれしいコメントを書いてくれましてね」

学生は人形の写真をFacebookにあげ、こんなコメントを添えていたそうだ。

「人に与えれば与えるほど、自分が得るものが多くなる。そのことをずっと忘れないためにも、この人形を大事にします」

しっかりと自立できる通訳を目指してほしい。アンナートさんの思いは確実に学生たちのもとに届いている。

人生は選択の連続

通訳として歩いてきた道をアンナートさんはこんな風に振り返る。

「そもそも空軍士官学校に入ったのはパイロットを志したから。日本語の勉強のしすぎで視力が落ちたので、夢はかなわなかったけれど、いま考えれば日本語の通訳になったのは運命だったと思います。人生は選択の連続。選択した結果が自分の運命ですからね。日系企業の中には、タイを見下して、横柄な態度を取る人もいますが、フリーランスだからそういうところとは次に付き合わなければいい。こちらに選択の自由があるんです」

仕事を選択できる強さを身につけたプロ中のプロ、アンナートさん。忙しい時間を縫って人材育成に時間を割いているのは、日本語通訳のレベルを底上げし、通訳の人材の層を厚くするためだ。語学のみならず、専門知識と日本文化を理解する人材の輩出が日本人の意識も変えていく。そのとき、タイと日本との関係はより強固なものに変わっているに違いない。

私と日本」とは?

日本語を話し、日本の価値観を身につけたタイ人から見た、日本の姿とは何か?2つの言葉で2つの国を駆け抜けるタイ人の人生に迫る、タイでのビジネスにヒントをくれるドキュメンタリーコンテンツ。
三田村 蕗子の画像
執筆 三田村 蕗子

ビジネス系の雑誌や書籍、Webメディアで活動中のフリーライター。タイをもう一つの拠点として、タイはじめとするASEANの日系企業や起業家への取材も手掛ける。新しい価値を創出するヒト、店、企業の取材が得意技。コロナ禍で絶たれたタイとの接点をどう復元するか模索中。

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